浦安は、何者なのか!
葛南雑記TOP 行徳・南行徳・浦安
 浦安の元となった堀江・猫実・当代島の所属した地域名は葛西荘,八幡荘,行徳領,武蔵知県事,小菅県,印旛県,
千葉県と変わっていきました。三村が合併して浦安村になったのは明治22年4月1日のことです。
 葛西荘から始まったところを見ても堀江・猫実・当代島の歴史は,かなり古く迄,さかのぼれます。一番古いのは豊受
神社の創建が鎌倉幕府成立前の保元二年(1157年)です。創建時の場所は今と違い,当代島の「字大宮前」と言われ
たあたりです。次の地図を参照してください。地図を拡大していただけると分かりますが,同じ時期(1196年)に創建され
た清瀧神社,宝城院と同じライン上になり,砂州上の標高の高い場所(浦安の中で)になります。
 永仁元年(1293年)大津波にて初期の当代島は全滅しています。この頃の当代島は「字大宮前」周辺あたりに集落が
あったと思われます。以上のことは,伝承であり,確たる証拠がありません。

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一、記録に残るもので一番古いものは葛西荘二之江の妙勝寺縁起です。
 中川口から浦安堀江までの海岸線は「堀江の
浦」と呼ばれていました。
 後年江戸時代中頃には,左近川の外側に堀江
村の飛地が開拓されます。昔の堀江の浦だったと
ころです。
 
二、1992年,堀江の正福寺の境内から板碑の一部分と見られる石片が発見さ
れました。
 板碑とは供養塔として建てられたもので現在の卒塔婆の前身といえる,主に鎌倉武士の間で広がったもので鎌倉時
代から室町時代に関東を中心に全国で見られる。
お隣の江戸川区には多数の板碑が残されており原料の石は秩父・長瀞地域から産出される緑泥片岩が中心です。次
の表は江戸川区の文化財に指定されている板碑の一覧です。

全部,鎌倉時代のものです。隣接した長島の梵音寺にも残されています。正福寺の板碑も鎌倉時代1300年前後のも
のである可能性が高く,正福寺の創建前から,同じ場所に日蓮宗系の集合墓地があったことになります。
 堀江・猫実・当代島の三村は,鎌倉時代のいつ頃か分かりませんが,葛西荘から八幡荘になっています。八幡荘とい
えば日蓮
富木常忍・曾谷教信・太田乗明たちが日蓮を庇護し,後に中山法華経寺を建立します。このことは葛飾の各地に多大
な影響を及ぼし多数の日蓮宗の寺院が建立され,又は真間山弘法寺のように真言宗から宗旨替えするところもありま
す。鎌倉時代の浦安の地にも八幡荘の商人・船舶関係者が多数移り住んだはずです。どうやら浦安や今井周辺の河
川は鎌倉船の母港になっていたようです。

三,中山法華経寺のまもり寺と言われる法宣院の文書に猫実が載っている。

 応永27年(1420年)法宣院の日英が弟子の日国・日親に書いた譲状の一文です。「八幡猫眞講」の文言があります。
八幡荘の猫眞(猫実)に法華講があり毎年定期的に中山法華経寺と法宣院を参詣し寄進していたということです。また
寺と言うほどの体裁ではないが,30前後の集合墓地があったと思われます。
 中山法華経寺とその子院・塔頭の文書はかなりの量が残されています。(その他,真間山弘法寺・本土寺などの文書
は貴重な資料になっています。市川北部の寺院はほとんど台地上にあるので火事を除いて災害を受けていません。)
市川市各寺院の歴史文書は市川市史第五巻に収録されています。
 漁師町という土地柄,浦安の住人は昔から信心深く色々な講があったと「浦安町史上」に有ります,ほとんどの講が
明治以降の始まりです,純粋な信仰もありますが,観光を兼ねた参拝が,いくつかあるようです。



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