南行徳-誕生の謎
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 行徳領の中で、現在の南行徳地域だけは古い記録がありません。現在の関ヶ島から野鳥観察者のあたりまで斜め
に太日川の支流が流れており、太日川の本流と支流の間のデルタ地帯いわゆる細長い三角州であった地域が南行徳
であり、太日川に沿った自然堤防の微高地以外は葦や雑木の生い茂る低湿地でした。ここでいう南行徳は現在の押
切から新井までです。行徳領の中でも利根川上流から運ばれてきた土砂が積もり積もってできた微高地にへばりつい
た一番細長い地域です。香取・欠真間あたりでは、江戸川と内匠堀の間の距離が100m前後のところが続きます。

 室町から戦国にかけて賑わった川津の今井を対岸に持つのが相之川と新井です。支流の河口の村が現在の湊、こ
れらの三つの村のみ、徳川家康が関東に入る前から、南行徳で人々が住み着いていたところです。
 南行徳で一番古いと言われる寺社が香取の香取神社です。鈴木和明氏によれば、遅くとも1386年には、創建された
と言われています。この論拠は「行徳-寺だらけ」にも掲載している香取文書のなかで應安五年(1372年)、至徳四年
(1387年)の行徳の関に関する文書があるためと思われます。次に相之川の了善寺1486年、湊の法伝寺1553年、圓
明院1560年、いずれも南行徳の両端です。その他は1590年の家康関東入り以降になります。
 南行徳の始まりは、家康が関東に入ってすぐ行徳の塩に目をつけたことです。行徳七浜で作られていた塩を南行徳・
浦安でも作らせようとしました。
狩野浄天 
 米も野菜もとれないこの土地を開拓し塩田を作るためには、かなりの人手がかかります。それにチームワークも必要
で、高度に統制のとれた集団が最適となります。そうするとかなりの大物でなければなりません。そこで白羽の矢が刺
さったのは北条氏照の家臣で八王子城の落城とともに自決した狩野一庵宗円の息子です。旧主と行動を共にする家
来も一緒に入植しました。狩野家の一族が欠真間の地にきたと言うことは、幕府にとっても好都合で、北条方の浪人た
ちが集まりやすくなり、太日川の改修工事と塩田の開発が同時進行で進み、家康の思惑どおり塩の増産・自給が実現
していきます。
 ここでは、少々長くなりますが狩野一族について調べてみたいと思います。そのまま欠真間の項目に入っていきます。

後北条氏の家紋である「三つ鱗」です。写真の源心寺本堂の屋根瓦には、しっかりとこの家紋が飾られて
います。狩野家の家紋は「丸に違い鷹の羽」のはずで、旧主の家紋を掲げるのは、大胆不敵と思われま
すが、本堂は何回も建て直しており、「三つ鱗」の家紋が入ったのは近世に入ってからのことです。江戸時
代初期の創建の頃は、幕府にはばかっていたでしょう。

源心寺入り口左側にある六地蔵です。狩野家の故地より伊豆石を取り寄せ、南行徳周辺の仏師に掘らせたと言われ
ています。広大な寺地に壮大な伽藍そして大きな六地蔵、また内匠堀の開削も始めています。江戸時代初期の開拓を
始めたばかりの狩野家には大変な財力があったといえます。行徳領の塩の増産は、いはば国家プロジェクトであり、惜
しみなく予算がつぎ込まれ、手厚く幕府に保護されていたのも事実です。

狩野家歴代の墓地です。一番右端が狩野浄天の墓石です。(浄天と夫人の墓石は以前は背景に見える住宅前の塀際
にありました。)今から40数年前の地盤沈下で欠真間地区は被害が一番大きく六地蔵をはじめ多くの墓石が半分ほど
地中に埋もれてしまいました。その後東西線が開通して、檀家が裕福になってきたためか、往時の状況が嘘のように
復興・整備されています。狩野家の墓地も一番奥にばらばらに建っていた物がまとめられています。

向かって右が狩野浄天夫妻の供養塔です。左のやや低い方は観智国師の供養塔です。
昔からこの場所にあったのかは疑問です。

この昭和44年の碑文は、湊出身の郷土史家、故遠藤正道氏がその著書「葛飾風土史 川と村と人」のなかで、散々に
こき下ろしています。詳しいことは「葛飾風土史 川と村と人」をお読みください、市川市内の図書館で借りることができ
ます。ただ一、二回読んだだけでは、内容が理解できないと思います。私も三回ほど読んだあと、ほかの資料を渉猟し
再度読み直して著者の言わんとすることがある程度理解できました。
遠藤正道氏の説は次の通りです。
@狩野浄天は新左衛門といい墓石は婦人とともに、一番奥の端にあった。墓地を相続している家がなく、半分埋もれて
 いた。(今は、上記の写真のように、場所が移され一番右端に置かれている。)
A狩野新右衛門は新左衛門の弟であり、明暦三年1657年になくなっている。この家は何代か続いているようだ。
B宝永元年1704年狩野四郎左衞門から続く墓地があり、幕府に仕えた狩野主膳系のものである。現江戸川区の松 
 本・鹿骨・谷河内・新堀・小松川が初期の領地であった。
C上州から移ってきた狩野家の墓地もあり、現在も欠真間に住まわれている。

※狩野新左衛門という人物がどこから出てきたのかわかりません。
※Aの墓石の主は浄天の子供ではないか?
※狩野一庵の子、狩野主膳が徳川家に仕官したというのは小田原北条記(下)に出ていますが、その後資料には出て
きません。後で述べますが意外な事実が発覚しました。
※Cの上州の狩野家ですが、調べてみると、群馬県の旧赤城村や中之条町には狩野姓のかたが沢山いらして、祖  
 先は伊豆から出ており戦国時代は武将として活躍した記録もあります。


狩野新右衛門重光
源心寺建立主なり、故に法号を源正院心譽安楽浄天禅定門と称す
天正十八年庚寅年 三月二十五日下総国行徳欠真間に来住す、徳川の
治世下諸州に於いて道路や水路を闢きたり、当地に於いても 元和
六庚申年田中内匠と倶に鎌ヶ谷道野辺囃子池より浦安当代島に維維
到る灌漑用水を開鑿し耕地を拡大す、後世の人この用水を浄天堀と
呼びたり、また「塩浜定免永の事」「塩浜普請の事」「村々耕地圦樋開設
の事」などを公儀に願い出て粉骨砕身し便利にせしものなりという
寛永六己巳年三月十五日没せり、祖先は藤原南家爲憲を始祖とし
駿河守維永より代々伊豆狩野庄を領して狩野介を称す、重光が父は
狩野主善茂春北条氏照公の侍大将にして主善茂豊が嫡男なり、天正
十八庚寅年氏照公に従い相模国小田原城に籠りて豊臣秀吉の軍勢と
戦いしが城開城後蟄居す、しかれど慶長五庚子年関ヶ原の役におい
て東軍加賀前田公の陣を借り二番槍の誉を得たり、茂春が弟六郎茂爲は
上総国一松に来住す、重光が祖父は狩野主善茂豊なり入道して一庵主
月宗圓法眼を号す、北条氏の侍大将にして天正十八年庚寅年六月二十三日
中山勘解由家範、近藤出羽介助実、金子三郎右衛門家重らと武蔵国
八王子城を守り豊臣方加賀前田利家公、越後上杉景勝公五万余騎の
軍勢と奮戦し討死す、行年五十八才なり、祖母妙性正譽浄心大姉も
殉じたり、この地は狩野家歴代の墓地なり、このたび地盤沈下のため
墓石のみを嵩上す・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
上記の碑文に比べるとかなり分かり易くなっています。ただ「天正十八年庚寅年 三月二十五日下総国行徳欠真間に
来住す」となっており八王子城の落城が天正18年1590年6月23日、小田原城の開城が7月5日の前になっており、まだ
家康も江戸城には入っておらず、当然江戸川の開鑿・塩田の拡張も天正19年以降になるはずです。これは何か資料
の読み違いと思われます。

この碑文を元にした狩野家の系図です。

藤原南家爲憲・・・ 狩野主善茂豊(一庵宗圓)→茂春(嫡男)関ヶ原後消息不明→重光(浄天) ?〜1629年
               行年五十八才    →茂爲(茂春の弟)上総国一松へ

@先祖を狩野介としていますが、小田原衆所領役帳では狩野介は松山衆に組み入れられ、松山城に入っています。
A何より問題は浄天が一庵の孫になっていることです。1590年八王子城落城の際自刃した一庵が58才であったという
 のは妥当な線だと思われますが、孫だとすると、大目に見ても14、5才、おそらく12才前後でしょう。おそらく浄天が欠
 真間に入植したのが1591年の前半でしょうから、いくら何でも幼すぎます。30歳前後の働き盛りである一庵の次男か
 三男以降と思われます。
B茂春の弟が上総国一松(現在の長生郡長生村一松)に来住とあります。記録によると、寛保元年(1741)に一松神社
 の社殿が造営された時の神官が狩野播磨守保信という人だったそうです。そういえばお笑い芸人の狩野 英孝も実家
 は宮城県栗駒で1500年も続く神社の神主です。(鎌倉時代の初め栗原市の一迫川流域に狩野行光が源頼朝から恩
賞をもらい、住み着いています。その一族は一迫氏として江戸時代まで最後は伊達家の家臣として続いたそうです。宮
城県にはかなりの数の狩野家が残っています。)長生村一松には狩野姓の家が何軒かあるようです。

欠真間の狩野家について分かってきたこと。
欠真間狩野家の先祖である、狩野一庵とはどういう人物であるのか、検証してみたいと思います。
まず小田原衆所領役帳に載っている狩野姓はつぎの通りです。


狩野大膳亮 513貫 お馬廻り衆
狩野介    771貫 松山衆
狩野藤八   90貫 松山衆
狩野左近   69貫 松山衆 
 狩野城の城主は代々狩野介を名乗っており、伊豆狩野の本家のようです。狩野大膳亮とは一族としての関係を保っ
ていたようです。
 この狩野大膳亮が、後の狩野一庵といわれています。狩野大膳亮は狩野泰光といい、北条氏の奉行として手腕を発
揮していました。関東各地に残っている数多くの北条氏の朱印状に狩野大膳亮の署名があることから、武将と言うより
も官僚的な役割を担っていたようです。(狩野一庵が祐筆であったといわれるのは、ここから出ています。513貫・約
2500石もの知行がある祐筆はいないと思います。)
 永禄11年1568年2月を最後に狩野泰光署名の朱印状等がなくなります、この年が狩野泰光の没年とする歴史家もい
ますが、永禄12年1569年12月から八王子城主北条氏照の奉行として狩野一庵宗円の署名した文書が出てきます。
1569年以前の狩野一庵の経歴は不明であり、武田氏の家臣であった小幡一族の小幡帯刀が出家して狩野一庵にな
ったなどとめちゃくちゃな説もあります。しかし素直に狩野一庵は狩野泰光であり、北条氏康によって氏照に、付けられ
たとするのが、真説のようです。
 天正18年1590年6月、氏照はじめ精鋭4、000の部隊は小田原城に入っていて、八王子城に残ったのは横地監物、狩
野一庵、中山勘解由、近藤出羽などの老臣たちと、女子供・領民達です。対する豊臣方は前田・上杉・真田など歴戦の
強者ども約5万の軍勢、勝負にならないのは分かっていますが、降伏せず戦います。しかしやはり、一日で落城してしま
います。横地監物はうまく城を抜け出しましたが小河内村当たりで自害、狩野一庵と中山勘解由は切腹しました。
 八王子城の守備隊の中で、もっとも評価の高かったのが中山勘解由でした。馬術の名手として著名で、武田勢との
戦いなど氏照の関わった戦いには常に加わって勇戦しました。前田利家・上杉景勝も自分の家来にしたいと思い降伏
を勧めようとしましたが、潔く自害してしまいました。中山勘解由の二人の息子は氏照と一緒に小田原城にいました、落
城後身を隠し暮らしていましたが、家康が探し出し長男の照守、弟の信吉ともに旗本にしました。父と同じくどちらも馬
術の名手だったそうです。中山照守は後に3、500石の大旗本に、弟の信吉は水戸藩の家老になり2万6千石を領しまし
た。
 一方、狩野一庵の子供達ですが、狩野浄天が南行徳の開拓に大きな役割を果たしたことは分かっているのですが、
狩野主膳(おそらく一庵の長男)が小田原北条記によると幕府の旗本になったとあるのですが、浅野家に仕えたとか前
田家に行ったとか、いろいろ勝手に言われています。しかし狩野主膳の子供(狩野一庵の孫)のその後は明らかになっ
ています。
 
井伊家筆頭家老木俣氏の二代目の実父は狩野主膳
 下記の読みにくい資料は東京大学史料編纂所「彦根藩家中貞享異譜」から、抜き出したものです。井伊家彦根藩が
始まってからの家老に木俣守勝がいます。伊勢国の出と言われ、父の代から徳川家に仕えましたが一族内の争いか
ら浪人し、後に明智光秀に仕えて戦功があり、家康に呼び戻されて、井伊直政に付けられ、筆頭家老になります。いわ
ば井伊直政のお目付役となります。
 木俣守勝には跡継ぎがいなかったようで、奥方の妹の子を養育し養子としました。その子が二代目木俣守安(天正14
年1586年 - 寛文13年3月10日1673年4月26日)です。4千石を領しました。下記の資料には、「実父小田原の臣狩野主
膳」とあります。母は新野親矩の娘、小田原落城後、守安は乳母に抱かれ土佐守を頼ってきたとあり、実父である狩野
主膳の生死はままならぬところです。もしかすると、主人の北条氏照に続いて追い腹を切った可能性があります。
 そこで、なぜ狩野主膳の息子が井伊家筆頭家老の跡継ぎになれたか?疑問のわくところです。実は狩野主膳夫人で
ある母親は新野親矩の娘と書きましたが、新野親矩は彦根藩初代藩主井伊直政の命の恩人なのです。井伊直政の
父井伊直親は今川氏の家臣でしたが、徳川家康に内通した角で殺害されてしまいます。そのときまだ小さい直政をかく
まったのが新野親矩でした。その二人の娘が木俣守勝と狩野主膳という、それぞれ徳川方・小田原方の有力家臣に嫁
いでいたのです。(彦根藩は文政13年1830年に十一代藩主の十男が新野家を再興しています。)藩祖直政の命の恩
人である新野親矩の血を引いた守安は、筆頭家老にふさわしい血筋といえます。
 木俣守安は88歳の長寿を全うしています。叔父が先頭に立って開拓した南行徳の地も安定期に入り、人々がいきい
きと生活している様を噂に聞いたか、こっそりと見に来たかもしれません。


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