行徳-寺だらけ
葛南雑記TOP 行徳・南行徳・浦安
 ここに言う行徳とは、旧行徳町の範囲です。伊勢宿から二俣まで葛飾の浦と呼ばれた海に沿った地域です。この海
沿この町にいつ頃から人々が住み着くようになったのか、水害の町には一切資料がありません、ただ市川市国府台に
は下総之国の国府があり、コルトンプラザの南の公園には鬼高遺跡が発見されています。鬼高遺跡は古墳時代後期
の遺跡で600年前後だと言われています。この頃にはもう市川砂州の外側で人間が活動していたわけで、国府周辺で
消費される塩は、鬼高遺跡の周辺から本行徳あたりで細々と作られていた可能性もあります。
 平安末期から鎌倉時代に入ると、千葉氏をはじめとした有力武士が台頭し、人口も増えていきます。この頃首都鎌倉
の塩の需要をまかなったのは神奈川県の六浦周辺の現在の金沢地区です。執権北条泰時は仁治 2年(1241)に朝比
奈切通しを切り開きます、東京湾に面した六浦が鎌倉の海の玄関になります。六浦だけでは塩の生産は需要に追いつ
かなかったはずです。大師・行徳・蘇我・五井で作られた塩も鎌倉に送られたはずです。鎌倉時代の塩作りは後の行徳
七浜の内、本行徳・河原・大和田・稲荷木・田尻・高谷の六浜が中心と思われます。

行徳の関 
 室町時代になって初めて、行徳という地名が文書に出てきます。下記の資料は「市川市史第五巻 香取文書」より抜
粋したものです。右のページの文章は應安五年(1372年)、左のかなの文書は至徳四年(1387年)のものです。
 注目すべきは、左の文書です。「志もかわべのうち」に「きやうとくのせき」が含まれているのです。「志もかわべ」は当
時の下河辺庄で野田市を中心に三郷・吉川・松伏・春日部・八潮・幸手・古河・栗橋など水上交通の要港を占めるとこ
ろです。
 この大中臣長房譲状の記載内容から「行徳倉敷説?」が生まれました。市川市立市川歴史博物館学芸員である湯
浅治久氏が「論集江戸川」と「図説市川の歴史」(どちらも2006年刊行、市川市内の図書館で借りられます。そのほか
にも興味をそそる内容がたくさんあります。)のなかで発表しています。
行徳倉敷説・・・「論集江戸川」より抜粋
行徳は倉敷か?
 こうした流通と荘園のありかたを象徴するものとして、ここでは行徳(現千葉県市川市)の役割について言及したい。行徳は、香取社の川関が置かれた所として十四世紀末に登場するが、そこでは下河辺庄内と表記される。しかし行徳のすぐ北には下総国府や公領があり、現状で確認できる下河辺庄の領域とは明らかに隔絶している。下河辺庄の「飛び地」としての行徳を理解する一つの方法は、これを下河辺庄の倉敷とみることである。
倉敷は荘園の倉町または倉庫の敷地のことであり、年貢の運送に利便な海上交通の要地に設けられた。著名なものは備後国太田庄の事例であり、山間部に位置した太田庄は瀬戸内海に面した尾道を倉敷としている。港町としての尾道の出発点はここにあるという。行徳は内湾(東京湾)と利根川流域の結節点であり、上流の下河辺庄の年貢をストックして運送するために設けられた倉敷なのではあるまいか。香取社の関の設置も、年貢の集積地としての機能と符合する事実であるように思う。行徳は戦国〜近世に独自の港町として発展するが、その前提として倉敷であった可能性を指摘したい。資料が皆無の現状ではこの行徳=倉敷説もほとんど憶測の域を出てはいないが、指摘するだけの魅力はある説だと思うからである。
注意書きに、このことは慶応大学の中島圭一氏が湯浅氏との面談で指摘されたとあります。
中島圭一氏は「日本の時代史11 一揆の時代」のなかで、行徳は下河辺庄の飛び地と断定しています。以下抜粋です。
「中世の港の多くは荘園の倉敷地、すなわち年貢の積出港として整備され、発展していった。備後国山間部の太田荘からの陸上輸送路が瀬戸内海に突き当たる出口に位置し、立荘から間もない1168年(仁安三)に同荘の倉敷地として付された尾道はその典型で、このほか越前国河口・坪江荘の荘域内にある三国湊、下總国下河辺荘の飛び地の行徳など、例を挙げればきりがない。」

 わが行徳が、歴史と映画で有名な尾道・北陸有数の湊である三国湊と並べられて大変光栄なことですが、中世の歴
史研究家として著名な中島氏、湯浅氏の「行徳倉敷説」は、中世における関東水上交通の状況、その後の行徳の歴史
をみてみると、首をかしげざるをえないものです。

 まず、上記資料の読み込み方が間違っています。以下に分かり易く書くと、こうなります。

一風早庄のうち戸ヶ崎ならびに大堺
 下河辺のうち彦名の関鶴ヶ曽根の関
 徳の関合五ヶ関の事

 見てお解りのように読点()が3カ所はいっています。明らかに風早庄・下河辺・行徳を分けています。彦名の関鶴ヶ
曽根の関をはじめ庄内にいくつもの川津を持ち、倉を建てる土地がいくらでもある下河辺庄が何故わざわざ船で下れ
ばすぐ近くの行徳に倉敷地を作る必要があるのか?まして当時の大きな湊である品川や神奈川に向かうには大回りに
なり経済性を考えれば、資料はなくとも状況証拠で結論は明らかです。行徳は下川辺庄の倉敷地ではありません。
 室町期の行徳は浦安とともに八幡庄に属しており江戸時代初期の庚申塔などにも、その名残で「八幡」と書かれてい
ます。しかし当時の行徳は米が全然とれず、わずかに塩を生産しているだけでした。葛西御厨にも接しており外部から
見れば、帰属のはっきりしない湊に写ったわけです。この頃の行徳の湊としての役割は、河川よりも、海上交通の寄港
地として重要だったはずです。
 市川市湊の善照寺入り口の左側に
ある五智如来像の背面です。1658年
に建立されたものですが、「下總国葛
飾郡八幡庄行徳湊村」と彫られてい
ます。この頃はすでに「下総之国行徳
領」であったはずですが、この前後の
行徳・浦安の庚申塔などの石像物に
は、八幡庄と彫られた者が多くあると
「葛飾風土史」の著者遠藤正道氏が
記しています。
 これを見ても、中世から江戸時代初
期にかけて八幡庄であったことは明
白です。
行徳は八幡庄の水上交通の拠点であった。
 湯浅氏と中島氏の見解は、八幡庄における水上交通を無視したものです。湯浅氏は別の論文の中で日蓮が二子が
浦から乗船し鎌倉に向かったと言われる伝説と、著書「東京低地と江戸湾交通」のなかで中世の江戸湾交通を論じて
いますが八幡庄がどこを貨物の積みだし港にしていたのかについては、一切論じていません。市川市の台地上にある
寺社の資料には載っていないようです。湯浅氏の論文は、要点があちこちに飛んでしまって、何を言いたいのかさっぱ
り分かりません。専門家ですので大量の資料はお読みになっておられるようですが、我々素人にも分かるように表現し
て貰いたいものです。
 行徳以外に八幡庄の港として考えられるのは、真間の入り江です。しかし真間の入り江が港として栄えた記録はな
く、中世から江戸時代にかけて、ここに河岸が設けられたことはありません。(松戸と行徳に河岸がありました。)おそら
く真間川を使って物資を行徳まで運んだはずです。海沿いには、小さな客船が出る事はあっても、貨物船が大量に接
岸できるところはありません。太日川からも海からも船が入る事ができ、多くの船を係留する事ができたのは行徳と猫
実(浦安)だけでしょう。船を長く留めるためには真水の濃い河口でなければいけません。船喰い虫の被害を防ぐため
です。天候が荒れる日が続けば、かなりの舟が太日川支流や対岸の前野や篠崎の小河川に、もやったことでしょう。
 行徳の塩作りは、想像以上に古いと思われます。国府台の国府が機能していた時代から、下総之国国府周辺の需
要は賄っていました。その後千葉氏、北条氏、徳川氏と変わるたびに拡大していったようです。
船橋市立西図書館蔵の
「下総之国図」を写真撮影
したものからコピーを撮っ
たものです。
1590年頃に作成され
たと言われています。
小名木川・新川はま
だありません。
 北条氏の勢力下だ
った頃の地図です。
現在の南行徳と浦安
は三角州で、関ヶ島
から湊新田にかけて
斜めに大きな川があ
りました。(この川は
1590年代に、塩浜拡
張のため堰き止めら
れました。)
 赤丸のところが行
徳の関の中心地で
す。行徳・関ヶ島とい
う地名が記されてい
ます。
 
 
 
 
 


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