葛南雑記
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「葛南」て,いったいどこ?
 古代からある葛飾という地域の南部のこと,現在の行政区域としては存在しませんが,千葉県の出先機関の名称と
して,いくつか使われています(葛南県民センター・市川水道事務所葛南支所等)。
 通常は市川市・浦安市・船橋市の3市のことをいいますが,鎌ヶ谷市・八千代市・習志野市も葛南に含めることがあり
ます。
 ちなみに,東葛飾は松戸市・柏市・流山市を中心とした地域,北葛飾は埼玉県の北葛飾郡(松伏・杉戸・鷲宮・栗橋)
あたり,西葛飾は東京都葛飾区・江戸川区を中心とする東京の東部に平安末期から鎌倉時代初めにかけて葛西氏が
納めていた地域をいいます,不思議なことに葛西氏の城があった葛飾区ではなく,江戸川区に葛西という地名が残っ
ているのはどうして?

<下総国行徳領新井村に小石川養生所の医師になった人がいた!>
天保12年(1841年)大御所家斉が亡くなると,老中首座水野忠邦による天保の改革が始まりました。極端な倹約令・
人返し令などの農本主義・急激な経済改革・上知令など,強権的な改革が裏目に出たようで,庶民を含めて日本全体
を敵に回してしまいわずか3年で水野忠邦は失脚してしまいました。
 しかし,江戸時代の三大改革として教科書にも載るだけに,天保の改革は細部にも及んでいます。その一つが暴れ
ん坊将軍徳川吉宗の時代,享保2年(1722年)に設立された「小石川養生所」の改革です。時代劇でも華々しい活動し
ていた享保期から100年以上が過ぎ,医師は世襲が続き医療の能力が無くなり,養生所で患者の面倒を見る中間の仕
事ぶりが悪く,患者から受け取るチップによって介護の内容が変わったり,出入り業者から賄賂を受け取り裏金を作っ
たり,其の果てに養生所でばくちを開いたりと,ばくち以外は現在の公務員の一部と対して変わらない状況になってしま
いました。
 養生所は町奉行管轄になっており,鳥居忠燿・阿部正蔵によって改革が行われた。其の第一は,天保14年(1843年)
3月19日,養生所の医師に,幕府の奥医師に変わって,評判の高い町医者を登用したことです。新しく採用されたのは次
の五名です。

本道(内科) 昆泰仲,宮本周圭

外科     粟津道慶,神谷玄俊

眼科     星野秀敬 (江戸時代は何故か目を病む人が多かったそうです。)

 給料は,15人扶持(米80俵)そして薬種料として,患者一人に一回使う薬の代金として,銀二分が支給されることにな
り初めてまともな施薬がされることになりました。
 さて上記五名のうち新井村出身の人は誰でしょう?

正解は昆泰仲です。

(小石川養生所については,「江戸の養生所」PHP新書 安藤優一郎著が,内容が細かくよく調べてあり,大変参考に
なりました。)

昆泰仲の墓は千葉県市川市相ノ川2-12-28にある 親縁山 了善寺にあります。
真ん中の墓石が昆泰仲の墓です。形が同じですが,
大きさの違う墓石が三つならんでいます,この昆家は
江戸時代後期に,村医ながら三代にわたって名医を
輩出した家なのです。
 左から初代順蔵,二代目淵齋(泰仲),三代目徳
輔,一代目と二代目の間が泰仲の安政大地震で夭
折した一人息子の得一郎の墓石です。
 この昆家(山澤本家)の家系は明治で絶えているた
め,無縁になり,大きな墓石は全部傾き,線香を手
向ける者もいなかったようです。
 郷土史家の故宮崎長蔵氏が,著書で取り上げ,宮
崎長蔵氏から直接話を聞いた、行徳在住の歴史作
家故祖田浩一氏が,その著書「行徳の歴史散歩」の
なかで詳細に調査・研究し発表しました。ちょうどその
頃、了善寺の檀家総代をされていたのが山沢本家の
分家である松田さんでした。そういう縁で無縁となって
いた昆家三代の墓も、お寺の方で場所を移して修復
してくださったそうです。(ちょっと場所がわかりにくい
ですが、お寺の方に聞いていただければ、教えてもら
えます。)
 うちの父の実家である山澤分家(はしや)の叔父にも昆家のいわれを説明しましたが,余り関心を示してもらえません
でした。
 我が家は私の両親が夫婦養子にはいり、山澤家からは姓が変わってしまいましたが,春秋のお彼岸など,墓参りの
際には,昆家の墓にも線香を手向けお参りすることにしています。

 了善寺は浄土真宗のお寺です。応仁2年(1468年)、慈縁和尚によって創建されました。行徳でも古い方のお寺で寺域
も広く,多くの檀家を抱えています。寺の多い行徳でも浄土真宗は珍しく,塩場寺として有名な法善寺とここだけです。
浄土真宗の寺院は今の江戸川区などにももっとあったはずですが,浄土真宗の一揆に苦しめられたことのある徳川家
康に遠慮して浄土宗に改宗したところもあるようです。

<<昆家三代>>
了善寺の墓地を本堂前から真っ直ぐに奥に向かうと右側に山澤家(無縁の本家と享保期に分家した「はしや」山澤家)
の墓があります。その向かいにあったのが,昆家三代の大きな墓石でした。父の話によるとどれも傾いて今にも倒れそ
うな物もあったそうです。
 そんな無縁の墓石の主達を最初に取り上げたのは,新井出身で市会議員を務めながら郷土史家としても活躍された
宮崎長蔵さんです。宮崎長蔵さんの家は行徳領内でも指折りの地主で,たくさんの古文書が残されていました。そのな
かに「泰仲場」と呼ばれた塩浜(現在の市川市福栄,新浜通りと江戸川第二終末処理場の間の,二町六反約7,800坪
の開拓地)の譲り受け証文が残されていたのです。この証文は「宮崎家文書」として市川市史にも収録されています。
 内容は慶応元年(1865年)に昆家三代の跡を継いだ新井村の勘三郎から宮崎長蔵さんのご先祖である六代目清右
衛門に7,800坪の泰仲場を売ったという証文です。長蔵さんは鈴木金堤の「勝鹿図志手ぐり舟」を含む全資料を「行徳
塩浜と新井村の足跡」に収録し自費出版で発表しました。これにより鈴木金堤と昆泰仲という名が知られるようになりま
した。




 



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