500年前の江戸川の流れ 
葛南雑記 行徳・南行徳・浦安
昔の江戸川はこうだったかもしれない。

関東における中世の水上交通について

 利根川が常陸川水系と接続されて本格的な関東の水運が始まったのは承応3年1654年といわれてきました。
このホームページも、1600年時点では関宿から常陸川へは水路は繋がっていないという前提で進めてきまし
た。ところが明治から大正にかけて活躍された歴史学者の吉田東伍氏は論文「利根川の変遷と修治」 のなか
で、古利根川の派川である逆川が関宿に通じ、さらに関宿からいくつかの湖沼(縄文時代の香取海の名残)を
つなげて常陸川に流れていたと、論説しています。下記参照。
 さりながら利根川筋から常陸川への水脈は、近世徳川家康江戸入部以前に於きましては早く細い水脈が有って常陸川へ通船ができます。〜中略〜天正年中(1573〜1593年)の文書で、関宿の旧家に伝へしものに、葛西から庄内川(古の太井川)を登り、栗橋城下まで通船した証がある。是は関宿の江川から今の五箇村島を横断して栗橋城下へ達するもので、江川の渡瀬筋を、当時は栗橋川とも呼ばれて居ます。而して一方は関宿から佐倉までも通船がある。即、関宿で以て逆川の交通路を設けて、葛西から佐倉までの水路が明白に認められる。又、栗橋の南には島川(八甫川ともいひ、利根の支流で、渡瀬の庄内筋へ落ちる者)があり、八甫の通船、権現堂の河岸の事は、慶長以前の者に見えるから、此の島川を通過すれば、更に上利根から常陸川への通船ができた筈です。天正二十年(1592年)の家忠日記に、上利根の埼玉郡新郷より船で下り、矢作、金江津、上代を経て小見川へ到りしと云う事を見れば、是れは合川で渡瀬へ移り、逆川(関宿)で常陸川へ移りました形跡が明白です。関宿は、天造地設水脈の通閉自在の枢機である。水脈の四通八達の要衝である。従ひて兵家の申す必争先制の地である。
                                             吉田東伍著「日本歴史地理之研究」から
 
 この吉田東伍氏の論文は、新しい資料や、1624年以前に描かれたといわれる「下総之国図」(船橋市立船橋
西図書館蔵)により実証されています。
 小笠原長和が「中世房総の政治と文化」1985年刊 吉川弘文館 東国史の舞台としての利根川・常陸川水脈
の中で、この論文の裏付けとなる資料をあげ、解説されています。氏の著書の内容を参考・引用して紹介した
いと思います。
上記の論文に出てくる「家忠日記」について
 家忠日記の作者松平家忠は、三河の松平の一族に生まれ、1575年21歳で家督を相続、各戦に参陣するが、城の普
請や修理などが得意だったようで、ちょっと変わった武将のようですが、その最期は壮絶で、慶長五年1600年、家康会
津攻めのさい、鳥井元忠等とともに、伏見城の守りにつきましたが、西軍が挙兵した際の目標とされ、十万前後の軍勢
に包囲されながら、籠城しよく戦いましたが、落城の際自刃しました。しかし家忠は伏見城の戦いよりも、「家忠日記」の
作者として、名を残しました。
 家忠は武蔵忍城(埼玉県行田市本丸)を代理として預かっていましたが、本当の持ち主である家康の四男・松平忠吉
が入ったため、下總国香取郡(現在の千葉県旭市櫻井)の上代城(櫻井城)に移る事になりました。文禄元年1592年二
月のことです。
「家忠日記」より
十九日 忍之城わたし候て、新郷より舟にて出候、
廿日   矢はき迄越候、
廿一日 かないと(金江津)迄越候、
廿二日 上代迄つき候、小海川(小見川)にて吉田佐太郎ふる舞にて馬ヲくれ候、佐太二刀ヲ出候

19日 新郷は、現在の埼玉県羽生市上新郷、現在の「道の駅はにゅう」周辺から乗船したようです。
20日 「矢はき」は茨城県坂東市矢作、関宿を通過し、常陸川水系に入っています。
21日 「かないと」は茨城県稲敷郡河内町金江津、常総大橋が架かっているあたりです。
22日 小見川で船を下りて、香取郡周辺の直轄領代官を務める吉田佐太郎の迎えを受け、用意された馬に乗り、上代
    城(現在の千葉県旭市櫻井)に無事到着しました。
    (この吉田佐太郎は、このあと葛飾郡の代官となり、市川市相之川の了善寺に陣屋を置いたとありますが、真相は定かではありま    
     せん。慶長元年1596年妙典村治カ右衛門に新塩浜開発書付を与えた事が宝暦六年1756年に書かれた「塩浜由来書」の載ってい    
     ます。その後、佐渡金山の代官となった佐太郎は、年貢を50%も上げたため、江戸に直訴され、切腹しました。)
家忠は、上代城に2年間居ましたが、兵糧米を江戸に運ぶ際は小見川から出船しています。これも関宿を通り、利根川
から隅田川に出て、江戸に入ったようです。
 「中世房総の政治と文化」には、このほかにも後北条氏の文書を中心に吉田東伍氏の論文を裏付ける資料がいろい
ろ載っていますが、一つだけ天正四年1576年の「北条氏照の判物」を紹介します。
   
船壱艘
右、氏照被官船也、従佐倉、関宿、自葛西、栗橋、往復不可有相違候、若横合之輩有之者、為先此証文、可被申、
後日之状如件、
 天正四年丙子九月
                                                 氏照(花押)

   関宿城は1576年には、後北条氏の勢力下にあり、氏康の三男である、八王子の滝山城主北条氏照がその支配
を任されていました。氏照の家来が船で佐倉から関宿、葛西から栗橋までを往復していました。その他にも沢山の船
が、この水域を航行していたのが読み取れます。天正期も利根川と常陸川水系は、繋がっていたようです。


 船橋市立西図書館蔵の「下総之国図」を写真撮影したものからコピーしていただきました。一枚十円でした。原本を忠実に再現した複製品も見
せていただきました。本当はデジカメで撮影したかったのですが、断られてしまいました。
 非常に貴重な資料であり、市井の研究者も見てみたいはずです。せめて写真が撮れるように期限付きでもいいので公開して貰いたいものです。
この下総之国図がどこまで正確なのかは、専門家の研究を待つしかありませんが、江戸川区の今井の場所が川沿いではなく、内側に書いていた
り、ややちぐはぐなところもありますが、資料としては一級品ではないでしょうか。
専門家が見た下総之国図の特徴
 埼玉県立文書館・主任学芸員 新井浩文氏が千葉県立関宿城博物館研究報告第六号(平成十四年三月)のなかで、関宿と埼玉の幸手市を中心に見た下総之国図の特徴を簡潔に記しています。
@江戸川がない。 1641年以前
A近世幸手領が下總国にある。 1637年以前
B近世幸手領が猿島郡に属している。 1627年以前
C高須賀村(現幸手市高須賀)がない。 1625年以前
D赤堀川がない。 1615年以前
E日光道中がない。 1617年以前
F戦国期の城郭がほとんど描かれており(元和期1615〜1624以前)各城郭間が連絡路で結ばれている。
G近世村落成立以前の村名が見られる。 (新田開発村無し=寛永1624〜1643年以前)
H戦国期に成立し、近世初頭に消える関宿「網代宿」がある。 1615年以前

 この研究報告によると、下総之国図が少なくとも、1615年以前に書かれたことは確かなようで、新井氏は1590年代に
描かれたのではないかと暗示しているようですが、研究者としては資料のない曖昧なことは書けないようです。
 「@江戸川がない」のなかで、新井氏は、流山のさき野田の台地あたりから発し松戸で太日川に注ぐ河川が江戸川
の源流の様であると述べています。私は坂川ではないかと思いましたが、西平井・加村・桐ヶ谷がこの河川の右の台地
側に記されており、流路としては古庄内川と同じあたりを、流れているようです。利根川東遷の第一歩は古庄内川の開
鑿から始まったのかもしれません。

下総之国図で私個人として気になる点
@関宿城の上をとおり、利根川水系と常陸川水系がかなり大きい流れで繋がっている。
A現在の江戸川の原型である庄内古川が記載されておらず、関宿城の西側から流れ出る三つの流れは、一つにまと
 まって現在の春日部付近で、利根川に合流している。
B関ヶ島から湊の海にかけて河川がはっきりと描かれている。
C現在の南行徳地区には地名は猫実しか記載されていない。
                                                                                      
                                                                                       
                                                                                       
                                                  

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