500年前の戦国時代初期、今の江戸川はどこを流れていたのでしょうか、現在の川筋は上流部から国府台まで、下総
台地の縁辺をなぞるように流れています、明らかに東国の伝統的な治水技術が使われています、野田から流山までは 利根川東遷に伴う太日川の付け替えがほぼ確実になっていますが、松戸から浦安河口までは資料が存在しないため に教科書上は、太古の昔から現在の流れと変わっていないことになっています。
江戸川人工河川論では理論的に太日川の流路変更を証明しています、惜しむらくは、真間川が市川砂州を(葛飾八
幡宮の市川よりで)突き破って海へ流れ込んでいることと、市川新田や内匠堀を認識していないことです。
現在の新川のように真間川が高谷あたりから海に流れ込んでいたとすると家康が関東に入部するまでは行徳での塩
作りは不可能になります、大量の真水が流れ込むことにより周辺海域の塩分濃度が下がるためです。
最初に市川砂州を越えたのは、やはり内匠堀ではないでしょうか、内匠堀については別に場を設けて推理(資料が少
ないので)してみようと思います。
下記の図をご覧ください、500年前の予想図です。
真ん中の流れが太日川です、現在の江戸川区を二分するように今井あたりを河口にして海に注いでいます、相之川
の了善寺から新井の熊野神社あたりまで、細長い砂嘴が伸びています。
海に向かっていくつかの支流が流れており、今の市川市湊に流れ出る川が一番大きな支流です、祭礼河岸(現在の
押切排水機場)も流域の一部です、遠藤正道氏は著書の「川と村と人」のなかで強く否定されていましたが、現在の地 形・海抜・湊という地名の成り立ちを考えると、ここに太日川の支流が流れていたのは確実です。
この頃の太日川は渡良瀬川の下流であり、現在の水元公園あたりから利根川の水も流れ込んできますが大雨や台
風の時期以外は利根川からの流水量は少なく、冬の時期などはかなり細い流れになっていたと思われます。(利根川 の本流は隅田川に流れ込んでおり、中川もかなり大きな流れになっていました。中川は利根川東遷完成後、小さな流 れになってしまいましたが大雨が降ると屡々氾濫したため、1725年から1739年にかけて井沢弥惣兵衛指揮の下、大改 修工事が行われ現在のような、くねくねと曲がった流れになったと江戸川区史にありますが、紀州流の工法で曲がりく ねった川を作ることはなく上流の青戸あたりの直線になったあたりを改修したと思われます。)
現在の江戸川の流路は、縄文海退時以降、市川砂州に閉ざされた大柏谷・国分谷などから流れ出る川が真間に大
きな沼を作り市川砂州の西辺で、あたかも大きな甕の欠け口から水がこぼれるように流れ出しています。
現在の市川市大洲周辺は湿原状態です、この真間からの流れは普段は緩やかで穏やかなものですが、大雨になる
と大河のような流れになりかなりの土砂を行徳の海に流します。
松戸から国府台を流れる川は、太田道灌が1478年前後、千葉氏を攻めた際、国府台城を築城し、松戸から小岩方
面に流れる川を、外堀として付け替えたものです、まあ小川に毛の生えたものでしょう。道灌は千葉氏を攻めるために 国府台城を築城したのであり、太日川を引き込んで自分の退路を塞ぐようなことはしません。
行徳・浦安の極端に狭いことにお気づきになると思います、家康は行徳領を塩の生産地としてのみ捉えています、もち
ろん塩田は古くなったり、洪水があれば荒浜になり、沖に新浜を作らねばならないことも承知していたはずです。
干潮になると、今の湾岸道路の少し先まで干潟になりました、有明海ほどではないにしろ、歩いてかなり沖まで行くこ
とができました。
其の昔,江戸川は色々な名前で呼ばれていました,太井川・太日河・利根川・文巻川・からめき川,葛飾誌略では夕
巻川・はい川とも呼ばれていたそうです。とりあえずここでは私の一番気に入っている太日河の河を川に変えて太日川 と呼びたいと思います。
なぜ太日川は現在の江戸川と流れが違うと気がついたのか、なぜ上の地図のような流路であったという結論になっ
たのか、いくつかの理由があります。
@自然の大河が微高地に向かって流れていくはずがない、現在の流れは自然
界では絶対にあり得ない。
国府台の高台に、筑波大学付属聾学校があります、仕事で訪れたのですが少し時間があったため景色を楽しんで
いました、断崖の下に江戸川を望む絶景の地です、川の流れの手前だけを見ていると、まるで深い渓谷を流れる大 河のようです、しかし対岸は重厚な堤防が続き、その先は真っ平らな東京低地が、どこまでも広がります。
後日対岸の江戸川区側の土手道を車で走っていると向こう岸の国府台の台地が垂直に近い山のように見えます、
岩の台地ではないので縄文海退時からかなり土砂が崩れ落ちて台地の下は東京低地よりも3m前後は高くなってい るはずです、崖地に流れを誘導し洪水を防ぐ治水技術は武田信玄の甲州流などでは一般的です、利根川東遷に伴 い太日川に今までの倍近い水量を流すためには流路の根本的な変更が必要だったのです。(上流部では、関宿から 野田にかけて、台地の間など隣の利根川よりも標高の高いところを流れています、流山でも千葉県側の台地や微高 地の縁辺をなぞるように流れていきます。)
遠藤正道氏の著書によると柴又あたりでは「江戸川の片流れ」という言葉があるそうで遠藤氏が矢切の渡しの船頭
さんに聞いたところ昔の江戸川は上流から下流に流れるだけで大潮の満潮でも逆流することはなかったそうです、国 府台下の高い河床は逆流できなかったということです。
1図
2図
上の二つの図は1947年9月15日から9月16日にかけて関東に接近し秋雨前線を刺激して関東・東北に大雨を降ら
せ甚大な被害をもたらしたカサリーン台風の浸水経路図と水深深度図です。
古利根川と昔の太日川の流域に沿って浸水は進んでいき南部では中川と現在の新中川周辺の水深が深くなって
います、江戸川を超えたところはなく、柴又・小岩・篠崎周辺は洪水の深度は浅く浸水がないところもあります。
この二つの図を見てわかるように現在の江戸川は篠崎あたりまで微高地を流れており、500年前の太日川は第2図
の赤い部分の近くを流れていました。
A現在の地形から見た太日川流路の検証。
行徳街道を行徳橋から浦安に向かって地図を追っていくと相之川左に向かうと江戸川と行徳街道が極端に離れてい
きます、新井の自治会館から新井水門まで約580mです、30mから50mのところが多いのですが、なぜ相之川から新井 にかけてのみ,こんなに離れているのでしょうか?
遠藤正道氏は、新井地区は新島村と呼ばれた島地であり1590年の安房を中心とした大地震で隆起した土地であると
結論づけ、見事に解決しました。
しかし行徳を含め東京低地の海沿いは砂でできた土地です、10年ほど前、家の新築の際に地盤調査をしましたが、
地表から2mが田んぼを埋め立てた土、田んぼの下から4mぐらいは縄文海進時の砂層があり、その下は火山灰のよ うな土の層が2m、これは氷河期に陸地であったときのものです、さらにその下は砂層が14mぐらい続いていたそうで す。(ダイエー南行徳店の建設の際、地下駐車場を作るために深さ10m程の大きな穴を掘っているところを当時のディ ーマートの3階から眺めていましたが、掘っても掘っても黒い砂が出てくる異様な光景でした。)
砂でできた土地は砂の水分次第で地盤沈下をしますが、隆起することはまずありません、相之川から医療センターの
手前までは太日川の河口にできた砂嘴と判断すべきです、旧行徳領で砂嘴であったのはこの区間だけです、他のとこ ろは川が運んできた土砂を海が岸辺に寄せて堆積した砂州です。
上の図は、関ヶ島から湊にかけての、500年前の太日川支流河口付近の想像図です。この地域のポイントは現在「千
寿銀杏」と呼ばれる押切の鎮守である稲荷神社の大銀杏です。(名前のとうり千年前後の樹齢と思われる行徳・浦安随 一の大木です。我々が子供の頃は、これだけの銘木・大樹にもかかわらず、木に登る者がいたり、隣接する家の敷地 にはみ出した枝が太い幹ごと切り落とされたりとひどい扱いを受けていました。現在は天然記念物の指定でも受けたの でしょうか、柵が設けられ、幾分樹勢が回復したようです。)
樹齢千年の銀杏の木が残っているということは、この稲荷神社のラインまでは間違いなく、少なくとも平安時代から陸
地になっていたということです。押切から相之川まで川筋を除いて、今の江戸川区と一体となった微高地だったので す。
太日川支流の流れは現在の東井堀の川筋とほぼ一致します。鎌倉船でも余裕で上れるほどの大きさだったはずで
す。
2009年6月27日、市川市湊水神様のお祭りです。御輿をもむとかの派手な行事はありませんが、子供がお参りすると
お菓子がもらえます。普段はあまり人気のない堤防に夜店が並び、子供の頃は学校からすっ飛んで帰ってきたもので す。(つい最近まで、6月30日が祭礼でしたが、地元の人もほとんどがサラリーマンになり、6月の最終土曜日に変わっ たそうです)
このあたりは湊新田から150mほど湊に入ったところです、旧堤防の路面と現在の堤防との段差は、まだ50cmぐらい
です。
だんだんと路面が低くなってきました、旧道でいうと圓明院のとなり昔の水野質店前の路地あたりです。私が子供の
頃このあたりの桟橋から「湊の渡し」が出ていました。
段差は、完全に大人の背丈ほどになっています、昔の川筋に入っています。右奥の大きな木がある場所は湊村を開
発し名主を務めた青山さんの敷地です、どういう訳か昔、煙草屋を営んでおり、近所の人は「たばこや」と呼んでいまし たが、昔の海の堤防近くまでの大地主でした、今でも新浜地区にあるスーパーなどの土地・建物のオーナーです。この 家の人々はいつもにこにこ笑顔で真面目です、とくにここのおじさんは優しい人で、我々が小学校6年生の頃、冬の田 んぼで遊んでいると、いろいろなことを話してくれました、ある日「ちょうどこのあたりに電車がとおり、もう少し先に小学 校ができる、せいちゃん(私のこと)の子供達が行くようになんべな」と教えてくれました。(ちなみに、うちの子供達が行 ったのは新井小です)地下鉄東西線と新浜小学校のことです、これは地主さんしか知らない情報です。こんな野良のま っただ中に夢のような話です、我々みんな狐につままれたような顔をしていました。まもなく東西線の高架線工事が始 まりました。新浜小の開校は1975年です。
水神様です、海辺の弁天様を遷して奉ったという説がありますが、全く別のものです、水難防止とともに、水に関する
商売繁盛にも御利益があります、お社の裏は行徳河岸の跡です、祭礼河岸とも呼ばれました、江戸から上州・東北ま で股にかける水運業者が最初に願うのが商売繁盛次に水難防止です。祭礼河岸までが太日川の川筋です。
1969年頃と記憶していますが、祭礼河岸の水量が増し土手の一部から水があふれ周辺が床下浸水のなる騒ぎがあ
りました、すぐに部落の「若けえし」が集まり、土嚢積みが始まりました。私も中学2年になっていたので足腰ふらふらと 頼りなげに手伝いました。30分ほどで出水は収まりました。今になって思い返すと土嚢の準備・集合の早さといい、かな り段取りよく行動しています。江戸時代からの水害への備えがまだ生きていた時代だったのかもしれません。
床下浸水になったのは昔の川筋だったところです、ほんの数分で足首あたりまで水がたまりました。押切側は旧道か
ら光林寺へ向かう路地あたりで出水していました。原因は新しい江戸川の堤防工事が始まった頃で大潮に対する備え が不十分だったようです。
このテントの向かいは、法伝寺に通じる路地です、昔は
湊の湯屋(ゆうや銭湯のこと)が、法伝寺の前にありまし た。私も20年間通いました。今の法伝寺があるところは、 川筋でしたので創建時の法伝寺は江戸川の堤防近く湊と 湊新田の境界あたりに建っていたそうです。(葛飾誌略に 「法傳寺旧地。圦樋より北の方にて、其頃は圦の寺と呼び しと也。」とあります)
旧道側から見ると、このあたりから右の方角が太日川支流の川筋になります。法伝寺の先から行徳駅にむかって海
に注いでいました。法伝寺は川筋変更後、現在地に移転しました。
我々が子供の頃、法伝寺の南側敷地内に、高さ150cm長さ7mほどの、盛り土のようなものがありました。笹竹で覆わ
れていましたが、日本庭園の築山にしては不格好なものでした。先日どうなっているものか、散歩のついでに見てきま したが、きれいに整地されて墓地になっていました。もしかすると押切方面の長山と一緒で川の締め切りのために作ら れたのではないかと思われます。
B先人の資料にはどのように書かれているのか。
葛飾記(1749年刊行)著者青山某(湊の人であることは確かです。)
「湊村といふは、海辺より大船の川へ入る口也(但し、右鎌倉船の入津場なり)今、村名となる。」
また、押切と湊の間に河の入江のように残っている(祭礼河岸のこと)、押切と湊はもと河尻のため、塩浜の塩付きが
悪いことなどが記されている。
浦安地区については、「大昔は、行徳領の内、堀江村を大船の場といふにて、若干の町割・鍛冶町・肴店などの跡有
るよし也。其時代は、葛西の長嶋といふ所と地続き也。此所は、昔、長嶋殿と申す城主の城下の湊のよし。」
「長嶋の湊の時は、辰巳の方、当代島村の耕地より大船入る。」
葛西の長嶋は、戦国時代まで漁業と鎌倉船の寄港地として栄えていました。古い寺も多く、梵音寺などは847年の創
建です。清光寺は長嶋高城の推定地とされています。遠藤正道氏が長嶋高城とは城のことではなく、小金城主高城氏 が1563年の国府台合戦後、交通の要衝長嶋を治めるために築いた館のことであると推論しています、私も賛成です。
葛飾誌略(文化7年1810年刊行)著者は馬光といわれるが正体不明。「本行徳は母郷なれば行徳より書き出す筈なれ
ども」という文章から類推すると、本行徳もしくは妙典あたりの大百姓と思われます。
「此川、むかしは小川にて、葛西方に付て川筋あり。今の如く大川と成りしは、元和年中、公命を以て開く。当年迄凡
八九十年に及び、凡東北上野・下野基餘五七ヶ国の通川にて、天下無双の用川な也。大小の船、日夜間断なく、上り 下りの舟歌の声も喧し。」 川は昔、葛西側にあったが、今ほど(文化7年前後)大きな川ではなかった1615年から24年 の間に、幕府の命令で今のような形に開削された・・・・・
利根川東遷で江戸川にも利根川が流れ込み、渡瀬川水系だけの時と比べると、倍以上の水量になったはずです。実
際に開削工事に携わった人々・周辺の農民・漁師にとって、関東で初めて見る天下人の大土木工事は神の仕業に見 えたかもしれません。其の一方で、仕官できなかった北条の浪人達・1614年の突然の国替えで行き場を失った里見の 家来達は、したたかに生き残りを画策し新しい川筋の周辺に土着し、あるものは一族郎党を引き連れて、またあるもの は家族一同で、行徳では塩田を、葛西では新田を開発していきます。
葛飾風土誌 川と村と人(昭和53年1978年刊行)遠藤正道氏著 市川市湊生まれの方です。私もどこかでお会いして
いるはずなのですが記憶にありません。此の本は私にとって郷土史のバイブルです、独自の史観・綿密な実証調査は 他の追随を許しません。
遠藤正道氏は湊から欠真間までは篠崎から続く細長い半島であったと結論づけています。また新川筋開削の工法ま
で分析されています。下に図を転載させていただきましたじっくりとごらんになってください。
遠藤正道氏の理論では現在の湊から相之川の了善寺あたりまでは細長い半島になっており新井から浦安までは浅瀬
に島が連なっていたと結論づけています。
C江戸川の河川敷に弥生時代から平安時代までの遺跡がある。
上の図は「東京低地の古代(侖書房刊)」より転載したものです。図では分かりにくいかと思いますが、葛飾区柴又の
江戸川河川敷に江戸川河川敷遺跡があります。古代人がわざわざ危険な河川敷に住まいや活動拠点を設けるわけ が無く、川筋を大幅に東へ遷した際に、河原に組み込まれてしまったようです。
養老5年721年の下総国葛飾郡大嶋郷戸籍に甲和里(小岩といわれる)・嶋俣里(柴又といわれる)・仲村里とあり、遺
跡が集中している中川周辺が仲村里といわれています(現在の青砥・立石・奥戸)。柴又や小岩の遺跡は太日川の自 然堤防に残されており、現在の高砂駅あたりから小岩にかけての川筋はかなり複雑な流れだったようです。
いずれにしても,太日川が上流から運んだ土砂は堀江から海神にかけてどんどん堆積し,後に塩浜になる下地を造っ
ていきます,縄文時代後期に長大な市川砂州を造った海側の土砂もほとんどが太日川のものです。
1590年,小田原北条氏が滅びたあと徳川家康は,豊臣秀吉の命で関東に国替えになります,250万石という秀吉政
権下では最大の大名になります。
しかし戦国時代の東国はいわゆる発展途上国ですが,江戸を中心とする関東に入国後家康は短期間で,すみずみ
まで調べ上げ,天下を取る前から,利根川東遷を計画実行します。江戸周辺の都市としての将来性を見抜いたので す。1594年忍城主松平忠吉が今の羽生で利根川からの会の川を締め切り渡瀬川の近くに流れを変えたのが始まりで す。1654年に完了するまで60年の歳月をついやしました。この事業だけを見ても家康の天下人としての器量は秀吉を 上回っていたと思われます。
家康が関東に入国したときはまだまだ戦国の世は続いていました,食料等は自領内で調達しなければなりません。
軍事物資としても必要不可欠な塩は最も大切なものの一つでした。家康のことですから塩の主要産地は入国前に調べ 上げていたはずです。鎌倉小田原に近かった三浦半島の六浦,川崎の大師が浦,行コ,生実に近い蘇我,上総の国 府前の海五井,その中で当然のことながら江戸に最も近い行コに白羽の矢が立ちました。
家康は早速行コの塩の増産を図ります。行コに直接流れ込んでいる太日川・真間川の流れを変えて塩田を増やそう
というのです,併せて葛西庄の耕地化をはかりました。小名木川は慶長年間(1596年前後)のはじめには開削され,新 川ができるまでは古川(親水公園として残っています)を通って行コの塩が運ばれました。1629年には南行徳の村々と 当代島・関ヶ島・伊勢宿でも塩で年貢を納められるようになります。
以上のことを勘案して,太日川下流の流路変更は1594年頃から始まったはずです。まず松戸から押切までの流路を
拡張し太日川の水を全部付け替えて流します。次に湊から堀江の河口まで新しい流路を開削し,関ヶ島・押切の河口 を締め切って太日川の流れはすべてかつて堀江が浦と呼ばれた所から流れ出していきます。
平地を開削していくので利根川付け替えほどの困難はないものの,完成までは20年前後はかかってしまいます。寛
永の始め1625年前後の完成と思われます。
下の図をご覧ください江戸川は川の氾濫を誘導して被害を少なくする関東流で開削されています。真水厳禁の塩田
がある行コ領側には水が行かないように今の江戸川区側に広く河川敷が設けられ,河床も深く掘られています。
江戸川区側の茶色のラインが江戸川開削後の本堤,現在の篠崎街道です。堤の外(当代島飛地・前野村・本行徳飛
地)は広大な河川敷であり川が増水した場合は,水没することになります。
当代島の飛地は1810年の段階で3石7斗7升3合,前野村は1649年で67石4斗7升7合,本行徳村飛地は明確な資料
が無く塩浜のための萱場か水田と思われます。
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